木之本地蔵院について
概説
木之本のお地蔵様は、眼の仏様、延命息災の仏様として古くから信仰を集めて
きました。一年を通じて地蔵堂では一心に祈っておられる参拝者の姿が見受けら
れます。特に毎年 8 月 22 日から 25 日の地蔵大縁日には全国から十数万人の参
詣者で賑わいます。
地蔵堂に祀られる本尊の地蔵菩薩は秘仏ですが、境内にはご本尊と同じお姿を
した高さ6メートルの地蔵大銅像のがあります。本尊のお写しで 100 年前に開
眼されました。
地蔵院の開山は、奈良薬師寺の僧、祚蓮上人(それんしょうにん)が、難波の浦に流れ着いた地蔵尊を背負い、地蔵菩薩の有縁の地を求め北国街道(ほっこくかいどう)を下ってこられた時のこと。休息をとった柳(やなぎ)の大木の元から動かなくなった為、そこを有縁の地として伽藍(がらん)を建立し、祀ったのが始まりと伝えられています。木之本の地名もここに由来します。
木之本地蔵院には、御本尊の延命地蔵菩薩の他、阿弥陀如来や、西国三十三カ所の諸観音菩薩、撫仏の賓頭盧尊者(なでぼとけのびんずるそんじゃ)、商いの仏 毘沙門天(びしゃもんてん)、木之本ダキニシン天(豊川稲荷)などが祀られています。
また当山には、身代わり蛙の伝説があります。境内に棲む蛙は「眼の病」に苦しむ人々の為、片方の眼をつむる事で自ら身代わりの願を掛け、今でもお地蔵様に仕え暮らしているといわれています。境内に立つ地蔵大銅像の周りには、沢山の身代わり蛙が奉納されています。
御縁起抄
今その由来をたずぬるに人王四十代天武天皇(てんむてんのう)の御時、
難波(なんば)の浦にながれつかれたのがその御本尊であって、天皇が夢にて
一比丘(いちびく)がこれこそ南天竺龍樹菩薩(みなみてんじくりゅうじゅぼさつ)の御作(みさく)にて霊験殊の外あらたかなむな申し上げられるのをみられ感激おくあたわず直ちに難波の地に伽藍(がらん)を建立せられ、唐土(とうど)をへだて遠く扶桑(ふよう)の地に出現せられ且つ(かつ)夜な夜な難波の浦に金光(こんこう)を放たれたといふ。
参詣の者頗る(すこぶる)多かったこと申すまでもなし。
しかし地蔵菩薩は二仏中間(にぶつちゅうかん)の仏であられるので仏法(ぶっぽう)の御縁深き地に安置してあまねく衆生(しゅじょう)をして其の慈光(じこう)に浴せしめたいとの帝(みかど)の御意(みこころ)により、奈良薬師寺の開山祚蓮上人(それんしょうにん)が勅命をうけこの尊像を奉持(ほうじ)して有縁の地を求めて、当時より諸人往来のはげしかった北国街道を下ってこられた時、丁度 柳の大木があったのでその下に御仏体(ごぶったい)を下ろされて御休息になった処、再びそこから動こうとはせられず、前にもまして金光を放たれた。あたり一面光明(こうみょう)につつまれ、病に伏せし者は治癒し、災難にみまわれし者は難が消除したといふ。
誠に地蔵菩薩は不可思議の霊像なり。
「この光こそ衆生救済(しゅじょうきゅうさい)、諸難諸病を遁れ(のがれ)願い成就したまう光なり、この地こそ地蔵菩薩の有縁の地なり」と伽藍を建立せられたのがそもそも現木之本地蔵院の草創(そうそう)なり。
弘法大師(こうぼうだいし)も親しく尊像を拝礼になられ、人王五十二代嵯峨天皇(さがてんのう)の御時弘仁三年、何分にも星霜(せいれい)久しきにわたりしため霊躯破損(れいくはそん)おびただしき尊像を、大師は一刀三礼(いっとうさんらい)の式を以てこれを御修復せられ、閻魔王(えんまおう)と倶生神(ぐしょうじん)の御脇士(わきじ)をおきざみもうされて安置れられると共に「永劫(えいごう)に末世衆生の諸々の願いが成就し給いし事、厄難厄病を除き給わん事」を祈り念じ上げ、紺紙金泥(こんしこんでい)の地蔵本願経(じぞうほんがんきょう)一部三巻を書経して御宮殿(おずし)の中に奉納せられたという。
益々もって地蔵菩薩霊験あらたかになりぬ。
現代語訳
昔をたずねてみると、第40代 天武天皇 の時代のことです。
大阪・難波の海辺に、一体の仏さまが流れ着きました。
ある夜、天皇の夢の中に一人の僧侶が現れ、「この仏さまは、南天竺の 龍樹菩薩 のお造りで、願いに応え、しっかりとお力をくださる仏さまです」と告げました。
そのお告げに深く心を打たれた天皇は、すぐに難波の地にお堂を建てられました。そしてこの仏さまは、遠い外国から日本へと伝わり、
夜になると、難波の海のあたりを金色の光で照らしたと伝えられています。
そのため、多くの人々が参拝に訪れました。
それが、今の御本尊、延命地蔵菩薩でした。
しかし、地蔵菩薩は「お釈迦さまがこの世を去られてから、未来に現れる弥勒菩薩(みろくぼさつ)が出現するまでの間、この世界にとどまり、私たちを救い続けてくださる仏さま」とされ、すべての人々を広く救う存在です。
そこで天皇は、より仏縁の深い地にお祀りし、
多くの人がその慈しみの光にふれられるようにと考えられました。
その命を受けたのが、
奈良の薬師寺を開いた 祚蓮上人 (それんしょうにん)です。
上人はこの仏さまを大切に抱き、ご縁のある地を求めて旅に出られました。
そして、当時多くの人が行き交っていた北国街道を進み、
ある場所で大きな柳の木の下に仏さまをおろし、しばらく休まれました。
すると不思議なことに、
仏さまはそこから動こうとされず、
それまで以上に強く金色の光を放たれました。
あたり一面が光に包まれ、病に苦しむ人は回復し、災いに悩む人はその苦しみから救われたと伝えられています。
「この光こそ、人々を救う光であり、
病や災いから守り、願いを叶えてくださる光である。
こここそ、この仏さまにご縁のある地である」
そう考えられ、この地にお堂が建てられました。
これが、現在の木之本地蔵院のはじまりです。
その後、弘法大師 (こうぼうだいし)もこの仏さまを拝まれ、
第52代 嵯峨天皇 の時代、弘仁3年のこと。
長い年月によって傷みの進んでいた御像を、
弘法大師は「一刀三礼(いっとうさんらい)」
という作法で丁寧に修復されました。
さらに、閻魔王 と倶生神 を脇に添えてお祀りし、
「これから先も永く、人々の願いが叶い、
災いや病から守られますように」と祈りを込められました。
そして、紺紙に金で書いた『地蔵本願経』を納められたといいます。
こうして、木之本地蔵菩薩のご利益は、
いよいよ深く、広く伝わるようになったのです。